人は時間をかけて作ったものを評価する傾向あり。成果が曖昧な世界では投入量が評価基準になりやすい

人は時間をかけて作ったものを評価する傾向あり。成果が曖昧な世界では投入量が評価基準になりやすい

人はどうしても時間をかけて作ったものを評価しがちです。

 

例えば長時間煮込んだスープや職人が長い時間をかけて作った工芸品はその実態を見るまでもなく良いものだと判断してしまう場合が多いのです

 

その理由は長い時間をかけて作られたものは優れたものであると言う経験則に基づくものと考えられますか果たしてそれだけなのでしょうか。

 

1時間だけ勉強をして100点を取った人と1ヶ月長い間勉強して100点を取った人学校社会ではどちらが褒められるでしょうか。

 

多くの場合長い時間をかけた人の方が褒められるのではないでしょうか。

学校教育では物事のプロセスを結果よりも優先して捉える傾向があるとはいえ、何かに時間をかけて努力した人に対して評価をするという側面があると考えられます。

 

人間は能力の差はあっても、時間は誰もが平等に持っている資産であると言えます。

その誰もが平等に持っている資産を投入して作ったものなのであるから、時間をかけられたものは一定の評価をすべきなのではないかという考えが透けて見えてきます。

 

しかし、これは生産性を最大化する上で非常に危険な考え方です

時間をかけることが正義となってしまいそこで生み出されたものの価値、またはその量に無頓着になりがちだからです。

 

実際に優れた能力を持つ人が作れば1時間で作れるもの数十時間をかけて作る人がいたらそれは極めて生産性が低いと言えます。一生懸命作ってくれたからあの人は頑張っていたと時間をかけた人を評価してしまうと、たった1時間で人によっては作れたものが膨大なコストをかけてつくられることになってしまうのです。

 

もちろん人が成長していくという過程を考えると生産性の低い瞬間というのは必ず存在するものですか分業によって他の人が担当すれば済むことを生産性の低い人に任せることで組織全体の価値の喪失を妨げてしまう可能性があります。

 

なぜか日本の社会では生産性の高さやどのくらいの価値を生み出しているのかということを口に出すことがあまり良いこととされない傾向があります。そして大量の時間をかけて物事に取り組むことが全面的に良いと評価されがちです。これは非常に残念なことです。

 

ある意味で考えれば物の価値というのは曖昧なのです。それゆえにかけた時間からその価値を決めてしまうということはよくあるのです。 価格を決定する際の方法として、コストの積み上げによる方法と市場価格または購買層の支払い意欲(能力)から算定する方法がありますが、どのくらい時間をかけられたかで物の価値を判断するということはコスト積み上げ方の考え方に近いと言えます。低コストで作られたものは価値も低いのではないかという様に考えてしまう傾向はやはり拭いきれません。

 

価値基準があいまいなものほど時間をかけて作ったものを評価せざるを得なくなるのです。

料理の味に対する評価は実は曖昧です。好みの問題もあれば体調、気分で感じ方は変わってしまいます。よって、正確な評価は難しいのです。よって、時間をかけて作った、研究して作ったといわれると、良いモノなのではないかと感じてしまいます。

 

一方で企業における営業活動などでは、営業成績が数字ででますから、どのくらい時間をかけたかについては、議論になりづらいです。数値で成果がでるスポーツでも練習量などが評価につながることは少ないです。どんなにトレーニングしても成果が出なければ評価されませんし、成果が出れば認められます。

 

よって

 

成果が明確に分かるジャンルでの活動においては成果をうたうことが、

成果に曖昧さを含む領域では投入したコストを見せることが大事になるといえます。

 

その意味では成果を明確に誰もが分かる形にしていかないと長時間労働が正義となりかねない ともいえるかもしれませんね。